お久しぶりに、ブログを書きます。
あれから、私の周辺にもいろいろなできごとが ありまして、どうもブログを書く気力を無くしておりまして、失礼しました。
その出来事とは
まず第一に、母が亡くなったこと。
次に、片頭痛に関しての講演と、そのほかの講演の座長を何回か頼まれまして、その準備に追われたこと。
さらには、今更ですが産業医になるための講習会に参加し、奔走したことです。
とりわけ、母が亡くなったことは、私にとって衝撃的なことでした。
99歳の大往生でした。
親を亡くされた人は誰しも同じでしょうけど、いくつになっても子供は子供ですからね、親を亡くすということは、悲しく、打ちのめされた気持ちになりますね。
母は、ずっと介護付き老人保健施設に入っていました。
父が亡くなる6年前までは父と同じ部屋にいましたが、父が亡くなった後も、同じ部屋で父の遺影とともに生活しておりました。
父が亡くなった当初は、独りぼっちになって寂しそうでしたが、次兄が毎週末に面会に行ってお世話していましたし、介護士さんや看護師さんがみな親切で、比較的元気でした。
でも、コロナ感染が流行し始めた2年余り前からは、私たち親族とも会えなくなり、もともと難聴ということもあり、人と接する機会を失い、次第に言葉少なになりました。
ときどき、窓越しの面会や、webでの面会は許されましたが、難聴のため、ほとんど話もできませんでした。
そのうち、車いすとベッドでの生活になり、食事のときだけ起きるけど、そのほかは傾眠がちで、話もしなくなりました。
それでも、昨年のコロナ感染流行が一旦収まったころに、マスクとフェイスシールドをしたうえでの直接面会が許され、母のぬくもりを感じることはできました。
どんなに大きな声で話しかけても、たまに眼をあけるだけ、すぐ寝入ってしまいました。
最後に母の声を気いたのは、今年の1月に私一人で面会に行ったとき、「私、どうすればいいの?」の一言で、その後は寝入ったままでした。
あとで兄に聞いたところ、母の肉声を聞けたのは、本当にレアだったそうで、幸運だったようです。
5月になりますと、母は寝てばかりになり、亡くなる1週間前には完全に食事もとらなくなりました。
施設の看護師さんや訪問診療の先生が、点滴をするかどうかの連絡がありましたので、私はまた母に会いに行きました。
このときばかりは、施設も母の寝ている部屋に通してくださり、約2年以上ぶりに母の部屋に入り、直接母に会うことができました。
そこには、静かに寝ている母の姿がありました。
私が声をかけても、まったく反応なし、奇跡は起きませんでした。
私は、母の手を握り、母に頬ずりをしながら、「せっかく医者にしてくれたのに、助けてあげられなくてごめん、実家を改造して診療所開業したら、って言ってくれたのに、叶えてあげられなくてごめん、最後になってもずっとそばに居てあげられなくてごめん、、、」
などと、ずっと謝っていました。
母は、目をあけてくれないのに、「むっちゃん忙しいんでしょ、いいから早く帰んなさい、私は大丈夫だから」って、いつもの母の口癖が聞こえてくるのです。
さすがの私も、泣けてなけて、涙が止まりませんでした。
やはり母は私にとって特別な存在で、心の支えだったのです。
もう一度、母の御御御付け(みそ汁のこと)や、手作りの沢庵を食べたかった。
でももう叶いません。
その日は、1時間ほどそばにいて、点滴はしないで、見守ってほしいと介護士さんに告げ、部屋を後にしました。
そして亡くなる二日前にも、母のところに行き、長兄と会って、一緒に母と面会しました。
長兄はすでに、母なきあと実家をどうするか、とか母の大事なものはどうするか、とか話していましたが、私は全く頭に入らず、いびきをかいて寝ている母を、じっと見つめていました。
このとき母は、少しやせてきましたが、まだ暖かく、安らかな顔をしていました。
でももうすぐ逝ってしまうだろうということを実感し、冷静になっている自分に気付きました。
ついにその時は、5月17日火曜日、私が午後の診療中にやってきました。
次兄から電話があり、兄があせって、「呼吸がとまったらしい」と知らせてきたのです。
覚悟していた私は、以外にも冷静で、母の「私は大丈夫だから、がんばんなさい」という声が聞こえた気がして、最後まで普通に患者さんに接し、診療を終えました。
兄たちが、その後の看取りと、葬儀の段取りなどを行ってくれました。
私は父の時と同じように、またも死に目にあえず、何もしてやれなかったのです。
私たちはカトリック信者なので、葬儀はミサをするのですが、教会の都合で葬儀ミサは1週間後の5月24日に執り行われました。
それまで、母の亡き骸は安置所で、冷所に保存されていました。
5月24日、私は始発の電車で、母の眠る神奈川県川崎市のカトリック教会に向かいました。
朝9時に教会に着くと、ちょうど母の遺体も安置所から教会に着いたところでした。
棺の中を覗くと、父の葬儀のとき以来6年ぶりに、化粧をしてきれいになった母を見たのです。
最後に会ったときは、母の手は暖かかったのに、この時は氷のように冷たかった。
さぞ、寒かったろうに、かわいそうに・・
そう思うと、冷静でいたはずの私も、この時ばかりは号泣しました。
心の中で、「最後まで居てあげられなくてごめんごめん、、」と、またしても謝っていました。
ミサが始まり、最後に兄が弔辞を述べました。
母は、ずっと子供たちが一人前になるまで世話をしてきて、父を信頼しきっていた、父の介護が人生最後の仕事で、父が亡くなったあとは、少し気力をなくしていたが、そのあともずっと私たち兄弟を見守ってくれていた。
本当に感謝しかない。
と述べていました。
母は最期まで、誰かのために生きる人、気丈な人で、穏やかな海のように、優しく心の広い人でした。
その気丈な母は、父が老衰で亡くなったときでさえ冷静でしたし、結局、母の涙を見たのは、母のお母さん、つまり祖母が亡くなったときだけでした。
私の最後の母への恩返しは、母の棺を乗せた車の横に一緒に乗って、火葬場まで行くことでした。
運転手さんに頼んで、父と母が建てて一緒に過ごした、実家の前を通ってもらいました。
主の居なくなった実家は、多少朽ちていましたが、兄が管理していてくれたおかげで、草ぼうぼうというわけではありませんでした。
母に一言、「ずっと家のこと心配してたもんね、ほら、やっと帰ってこれたよ」と声をかけました。
火葬場では、最後のお祈りを捧げ、母は荼毘に付されました。
父の葬儀の日は大雨でしたが、この日は快晴でした。
母は明るい、前向きな人でしたから、きっと神様がこうして見送らせてくれたのでしょう。
最後に次兄から、母が大事にして部屋に飾っていた、聖母マリア様の小さな銅像をもらいうけました。
そのマリア様は、今は私の部屋に居て、私を見守ってくれています。